
UMIUMA JOURNAL
“奇跡の一本松”のそばから、陸前高田の魅力を全国へ。
地場産品を広める地域商社として。
江戸時代から約350年間にわたって松林が整備され、観光地としてにぎわっていた陸前高田市の高田松原。松林は東日本大震災の津波でなぎ倒され、唯一残った松は“奇跡の一本松”として復興のシンボルに。現在は高田松原の跡地に整備された「高田松原津波復興祈念公園」にモニュメントとして保存されています。この公園の広大な敷地には、震災の記憶と教訓を伝える「東日本大震災津波伝承館」、そして「道の駅 高田松原」があり、被災地の今に思いを深めたり、復興を応援しようと全国から多くの人が訪れています。
この道の駅で、地域の特産品や水産加工物などを販売している「たかたや一本松店」を営業しているのが陸前高田地域振興株式会社です。今回は代表取締役の佐藤忠広さんと、営業部係長の佐藤貴洋さんにお話を伺いました。
会社について貴洋さんは「私たちは地域商社として、生産者や地元企業と手を組み、水産品などの流通・加工・販売を行っています」と説明してくれました。同社は1989年に地場産品の開拓を掲げる、第三セクターとして創業。これまで三陸の水産物をはじめ、農産物や加工品などを全国へ展開してきたほか、高田松原のすぐ近くにあった「道の駅 高田松原 タピック45」の運営管理やホテル、オートキャンプ場の営業なども行ってきました。
それらの事業を一変させたのが、東日本大震災でした。震災発生直後、忠広さんはホテルやタピック45で避難指示にあたり、津波が施設を襲う前に従業員は無事に避難が完了。しかし、会社には大きな損失が発生しました。忠広さんは「各施設の建物は会社の所有物ではなかったのですが、設備や商品在庫などが流出し、約1億3,000万円の被害が出ました」と振り返りました。
震災後、「奇跡の一本松」がメディアで取り上げられたこともあり、陸前高田には全国から多くの復興ボランティアが訪れました。そこで忠広さんは「地域商社として、少しでも地域の経済を回さなければいけない」とトレーラーハウスを活用した仮店舗「陸前高田物産センター」をオープン。被害が少なかった内陸部の菓子メーカーの商品や、Tシャツやステッカーといった陸前高田の復興応援グッズなどを販売しました。
養殖サーモンを活用し、名物づくりに挑戦。
2013年に本社事務所兼工場を整備した同社は、東日本大震災前にはなかったプライベートブランド(PB)商品の開発・販売に乗り出しました。忠広さんは当時のことを、次のように話します。「前社長が『地域を盛り上げるためには、雇用の場がないといけない。そのために広田湾や三陸の海の幸を活かしたPBで勝負しよう』と打ち出し、皆で頭をひねりながら商品開発に着手しました」。
2018年、新たな挑戦を続ける同社に頼もしい仲間が加わりました。それが地元出身の貴洋さんです。高校卒業後、東京で働いていた貴洋さんですが「地元の復興の力になりたい」とUターンし、同社に入社しました。面接した忠広さんは「当時のことは今でも忘れません。地元の若者が帰ってくるのは、とてもうれしかったのですね。ただ東京で働くよりもだいぶ給与が安くなると正直に伝えました」と話します。それでも貴洋さんは「陸前高田をもっと盛り上げて、にぎわいのある地域にしたいと思っていました」と強い意志で地元に戻ってきました。
近年、同社では広田湾や三陸などの海産物を活かした、新しいスタイルの商品化を進めています。陸前高田のブランド米「たかたのゆめ」を使った海鮮ドリア、広田湾産のホヤや陸前高田産のトマトを使った個食鍋などは若い人たちにも人気で、貴洋さんは「陸前高田の新しい名物をつくりたい」と意気込んでいます。「例えば、広田湾で試験養殖中のサーモンの水揚げが2026年から本格的に始まります。この養殖サーモンを使った新商品の開発にも力を入れています」。
貴洋さんの話を聞き、忠広さんは地域への想いを口にしました。「この公園には立派な建物の中に道の駅や伝承館があり、震災遺構も残っていてたくさんの人が陸前高田を訪れます。ただ、やはり名物と呼べるものがありません。であれば、養殖サーモンもそうですし、うちの工場で名物となる商品を作り、それを広く販売できれば地域にも大きく貢献できるのではと考えています」。
これを受け、「そうすれば陸前高田にも雇用が増え、訪れる人も増えてくるはずです。その担い手の一人として、我々が地域の核となって経済を回していければ」と貴洋さん。“奇跡の一本松”のように力強く、その視線は未来を見据えています。
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